藤沢市辻堂のお客様宅へ、調律でうかがったときのお話。
お持ちのヤマハ YC1SG で、鍵盤の白い部分が剥がれている、というご相談を事前にいただいていました。出張先での作業なので、工房に持ち帰ってじっくり、というわけにはいきません。その場で直して、その日のうちに弾ける状態でお返しする。そんな段取りで臨んだ記録です。

実際に見てみると、表面材が完全に外れていたのは2本。
ただ、指で1鍵ずつなぞっていくと、剥がれていない鍵も中音部にかけて点々と浮いているのがわかりました。
これは経験上よくある連鎖で、同じ時期に同じ接着で組まれた鍵は、だいたい同じように寿命が来ます。剥がれた2本だけ直しても、半年後にまた隣で同じことが起きる。なので今回は、剥がれた2本に加えて、中音部で浮いている鍵盤はすべて処理する方針で進めました。

まず迷ったのが、接着剤の選択
白鍵の表面はアクリル製で、それを木の土台に貼ってあります。教科書どおりにやるなら、アクリルの裏をアセトンで軽く溶かして木部に密着させ、固まらせる——いわば「溶かして食い込ませる」のが正攻法です。これをすれば仕上がりは間違いありません。
ただ、これは時間がかかります。溶かして、位置を決めて、乾くのを待って……
さらに溶けたアクリルが鍵盤からうにょっとはみ出してくるので、それを削り出して平滑にする必要があります。うーん、大変!
鍵盤ふたつといえども現場の作業としては正直超ヘビー級です。ましてやお客様のご自宅。乾燥待ちで何時間もお客様宅に居座るわけにもいきません。

そこで今回使ったのが、これ。タイトボンドという高性能の木工用ボンドです。木への食いつきが非常に強く、それでいて将来きちんと直すときには熱で剥がせる。ここが選んだ理由でした。木部にはがっちり留まるけれど、もしアセトンで正規の処理に組み直す余地は残しておける。可逆性を残したまま、現場のスピードに乗れる、という判断です。
一点だけ注意があって、タイトボンドは木材用なのでプラスチック(アクリル)そのものにはあまり推奨されていません。なので「木の土台にしっかり留める」ための採用であって、アクリル面への接着力そのものではなく接着層を作るという意図、というのは押さえておくところです。
とはいえタイトボンドはめちゃくちゃ強力な接着力があるのでアクリルでもくっついちゃうのはここだけの話。(実際1年前に貼り直した鍵盤はがっしりついたままでした)
貼り直しの手順
ここからは実際の手の動きです。流れとしては、足つけ → 両面に塗布 → 貼り合わせ → 奥行の調整 → マスキングで圧着、の順でした。
足つけ。 いきなり塗らずに、まず接着面の下地を作ります。古い接着の名残や、つるっとした面のままだと食いつきが甘い。木部を軽く目を荒らしてやると、後の保持力がまるで変わります。地味ですが、ここを飛ばすと泣きをみます……
両面に塗布。 木部側とアクリルの裏、両方に薄く塗ります。

片面だけだとどうしてもムラが出るので、両面に均一に。塗りすぎるとはみ出して後始末が増えるので、ギリギリのところを狙います。
貼り合わせ。 位置を合わせて土台に乗せます。ここで前後左右がズレると、次の奥行調整で取り返せなくなるので、仮に置いて確かめてから本番。
奥行の調整。 個人的に、ここが一番ピアノらしい工程だと思っています。

白鍵は、前端が一直線にそろっていて初めて「弾ける鍵盤」になります。1本だけ前に出ていたり引っ込んでいたりすると、見た目もタッチも気持ち悪い。なので接着剤がまだ動かせるうちに、治具を当てて前後位置を隣とそろえていきます。マスキングで仮どめしながら、ミリ以下を詰めていく作業です。
マスキングで圧着。 最後は、浮きを残さないように圧をかけて固めます。

マスキングで密着させたら、あとは硬化を待つだけ。ここで手を抜くと端が浮いて戻ってくるので、いちばん我慢が要るところです。
そして、ここが出張作業のいいところでもあります。圧着して固まるのを待つ90分前後を、まるごと調律にあてられるのです! 今日はもともと調律でうかがっているので、鍵盤を圧着したまま、そのまま音律を整えていきます。作業が終わって最後の音を確かめる頃には、接着もちょうど落ち着いている頃合いですね。待ち時間を遊ばせずに済むこの段取りは、出張ならではの組み立てです。時間、大事。
作業中、いちばん意外だったこと
直しながら、ひとつ「えっ」と思ったことがあります。出荷時の接着方法です。
さっき書いたとおり、アクリル鍵盤はアセトンで溶かして木に食い込ませるのが定石で、私はメーカーから出てくるピアノも当然そうだと思い込んでいました。ところがこの YC1SG、剥がした断面を見ると食い込んでいない。ごく薄い接着剤で留めてあるだけだったんです。
YC1SG は高さ112cm・奥行53cmという、ヤマハのアコースティックの中でもかなり省スペースに振ったサイレント仕様のアップライトです。モデルの性格なのか、製造年代の仕様なのかは断定できませんが、少なくとも「メーカー品=必ず食い込ませ接着」という思い込みは、現物に一発で否定されました。長くやっていても、まだこういう発見があります。

そんなわけで、剥がれていた鍵に加え、浮いていた鍵も中音部までまとめて貼り直して、無事に全鍵がそろいました。前端のラインもきれいに通っています。
もし、同じ症状が出ていたら
最後に、読んでくださった方向けに少しだけ。
白鍵の剥がれや浮きは、弾き方が乱暴だったから起きるわけではなく、素材の宿命として、ある年数で出てくる症状です。だから直し方より、見つけたときの考え方のほうが大事だと思っています。
1か所剥がれていたら、それは「ほかも浮いていませんか」というサインです。剥がれてから直すより、浮きの段階でまとめて処置したほうが、作業も少なく、仕上がりも安定します。指で軽くなぞってみて、フワッと動く鍵がないか確かめてみてください。
複数の鍵が剥がれている、タッチに違和感がある、という場合は、ぜひ一度ご相談ください。状態を見たうえで、必要な範囲だけを丁寧に整えます。
また、もし鍵盤が剥がれてしまった! などの症状が出た場合、剥がれた鍵盤は大切に保管しておいてください!
もちろん新しい鍵盤をご用意することは可能ですが、部品代と下処理などで追加の費用がかかってしまいます。
現物があれば接着作業だけで済むので、どこかに一時避難させておいていただけるととっても作業がスムーズに進みます。
※横浜の調律師による実機修理(ヤマハ YC1SG)の作業記録です。使用した接着剤や手順は、状態に応じた現場判断によるもので、すべてのピアノに同じ方法が当てはまるわけではありません。
